第39話    庄内の伝承「阿古の海」   平成17年01月02日  

庄内の古い伝承によれば、西側に冬の季節風によって砂洲が形成されその為に海が遮られて現在の平野部に巨大な内海「阿古の海」が存在したと云われている。その内海には何時の時代か、庄内平野の高台の場所がいくつかの島となっていたとも伝えられている。

その壮大なロマンに掻き立てられその実証に幾度かトライした事があったのだが、歴史時代以前の事とて文献に乏しくいずれも途中半端にて挫折していた。ところが先日加茂の水族館でお会いしたNHKを退職なされた方が、阿古の海について非常に興味を持ち現在調査中との事である。ところで荘内に生まれ育った荘内の過去を調べることは、自分にとっても釣の次に興味深い事の一つである。但し、文献の殆んどない時代の事でもあり、調べるには非常に困難である事甚だしかったのである。しかしなが、伝承が残っているという事は、まるっきり何も無かったと云う事も考えられない事でもある思っていた。

現在、庄内平野の西側には新潟県境から湯野浜にかけては20数`の岩山が続いている。そして湯野浜から秋田県境の吹浦まで約30数`は標高1560mに及ぶ一面を松の木で覆われた大小様々な砂山がある。現在松で覆われた砂丘は江戸時代に飛砂や塩害を防ぐために植林されたものである。その間平野部において海に直接注ぐ河川は最上川、赤川、日向川そして月光川の四つがある。その中でつい近年まで赤川は最上川に合流していたが、大正から昭和にかけて新川放水路が掘られて酒田市浜中地区に流れを変えた。日向川は江戸時代までは酒田市のすぐ北側で最上川に合流していたが、江戸時代の後期に北側に新川を掘削し現在の河口に落ち着いた。とすると歴史時代以前からずっと庄内平野から直接海に注いでいた河川は、最上川と月光川の二つでしかない事になる。吹浦にある月光川のその水源はすべて鳥海山に依存している短い河川である。それに対し歴史時代以前からの最上川は庄内平野の殆んどすべての河川を網羅しているばかりか、その源は遠く福島県との県境吾妻火山系の山中にあり、県内陸部のすべての河川を吸収して北上、新庄付近から西に折れて出羽山地の地峡を抜けて庄内平野に入る。最上川は県内の90数%の河川に水源を持っていると云っても過言ではない。しかもその歴史は洪水の都度平野の中を北に南にその流れを変え、河口も現在の酒田市を挟み北に南に絶えず移動していた事も分かっている。

古代において庄内平野のみならず県内のほとんどすべての河川を飲み込んだ古最上川の位置づけは、非常に大きなものであったと云える。色々な文献に寄れば庄内平野は典型的な沖積平野であったから、縄文海進期前後の時代(約90003000年前)以降太古の時代かの庄内平野に最上川、赤川、藤島川、日向川などの各河川から流出した大量の土石によって形成されたものであることは間違いの無いところである。縄文海進期の時代に冬の季節風が大量の砂を現在の砂丘付近の浅瀬に堆積させ、やがて現在西側にある砂山の元である砂洲を形成した。砂洲の形成により潟の口が次第に狭まられ、やがて内海が作られた。その内海も海の後退(縄文晩期)と共に各河川から流れて来た大量の土砂により、徐々に埋没し次第に潟が狭くなって来た物であると云われている。現在の気温より2度ほど暖かかった縄文海進期の時代に巨大な内海が形成されていたことは地質学の分野でも証明されている。その事は考古学の上からも平野部の奥の山際や比較的高台の地にある縄文遺跡の分布状態から見ても明らかである。

縄文海進期が終了しそれ以降、寒冷化が進んで海が後退した。その後も弥生海進期、古墳海進期、平安海進期を繰り返し平野部=湿地帯のところどころの窪みには大小の湖沼群が存在していた。その大半が幾多の小河川と繋がり、そしてそのすべてが古最上川に注がれ、海に入っていたことは間違いの無いことと考えられる。縄文晩期が過ぎて弥生時代に入っても直ぐには標高の低い平地には一部を除き沼沢地が多かった為か殆んど遺跡が見つかっていない。また一気に水が引いた訳でもだろうから10mのラインで線引きすると、高台が所々に頭を出して島が出来る状態となる。その高台のいくつかに現在○○島、○○津と呼ばれている場所が残っているのも何かを暗示しているようにも思えてくる。事実それを裏付けるかの如く、越後国出羽郡の設置(和銅元年=708年)以前の7世紀後半の遺跡は11mから上の大地に存在する。

伝説、伝承に残る阿古の海が現実にあったとする人達は、その○○島、○○津等を足掛かりに検証している人がいるようだ。その○○島などは平野のど真ん中にあり、○○津と呼ばれるものは高台の際に多くある事などからそのように云っていると云う人たちがいる。縄文海進期は3000年前に終了し、その後の2000年前には庄内平野は陸化していた事と思われるのだが、それに引き続く弥生、古墳、平安海進期の時に何処まで海になっていたのかは不明である。大小さまざまな湖沼群の存在があつたと推定され、大小の河川によりその大部分が繋がっており、とりわけ海進期の大洪水の折には当然のように平野の大部分が長期間水没していたとも想像出来る。平安中期の出羽の柵(酒田市城輪地区の城輪遺跡)の国府が月光川の氾濫で国府の直ぐ近くまで水が押し寄せて来て長いこと、八幡町の高台に移転せざるを得なかったという事件があった。その事件と同じように歴史時代以前の古最上川の大氾濫で平野の大半が水没し、それが長期間水が引かずそれが続いた事が、海と同じような状態となって、阿古の海の伝承、伝説に結びついたのではないかとも考えられる。

大正10年から朝日連峰を主な水源とする赤川を直接日本海に注がせるために酒田市黒森地区の高さ30mの砂山を掘っていた時に発見された黒森遺跡の最下層の泥炭層からアシや茅等と栗やナラなどの樹木と一緒に縄文晩期、弥生時代を経て古墳時代に至る土石器が発見された事がある。砂に埋まる以前、その場所に人々が継続して住んでいたと云う証拠であった。黒森地区は縄文晩期の終盤には寒冷化が緩み多くの樹木が生い茂る格好の人の住める環境であったに違いない。当時西側にそびえる砂山の陰に季節風を避ける様にしてその遺跡があつた。その後季節風の飛砂が酷くなり砂に埋まり、その後人々は他所へと移動してしまったと考えられる。平安時代に書かれた「三大実録」などにも飽海の西浜に神が石の鏃などを降らせたという記述が出で来るが、これなども遺跡が季節風にて砂が飛ばされ再び地表に姿を現したものであろうと考えられている。中期以前の遺跡である高台の羽黒町の玉川遺跡からは縄文中期から晩期にかけての土石器が数多く発見されている。このように内陸部の高台にある遺跡の大部分は、同じ縄文でも古い物が多く、酒田市黒森遺跡の様に砂山の付け根にあつた様な標高の低い遺跡は比較的新しい遺跡となっている。ちなみに朝日村の越中山遺跡の旧石器時代のそれは更に標高100mと130mの高い段丘上に15ヶ所に分散して存在する。

歴史時代にあって荘内に中央の勢力が進出して来た奈良、平安時代の官道は、かなり内陸部にあったとも云われている。出羽の柵の比定地も様々で現在の酒田市付近、藤島町の平形辺りかとも云われている。もし仮に国府が藤島町の平形の地にあつたとすれば、すぐ北側に出羽丘陵を越えた西側の佐芸(サケ・新庄付近の水駅?)から飽海(アクミ・平田町飛鳥?)の駅に抜ける古い官道があることが知られている。その道は遊佐(ユザ)の駅、由理(ユリ)の駅等を抜けて日本海側を北上し秋田城へと続く重要な官道である。歴史時代に入っても海進、海退と繰り返していただろうから丁度海進期に大洪水があり平野部の大半が海のようになったとすれば、あながち阿古の海と云える状態になったのではないかとも想像出来る。それが記憶になって受け継がれて阿古の海の伝承に繋がって来たのではないだろうか? その証拠のひとつとして新潟から抜けてくる南からの官道は不明であるが東からの古代の官道は、かなり平野の奥の高台を北に縫うようにして走っている。

すべては庄内の歴史時代以前の事であり、それを証明する文献の無い時代の事であるから、庄内すべてを網羅する地質学の調査、および遺跡の厳密な調査が待たれるところである。そして最後に庄内の北側を飽海(アクウミ→アクミ)と云うが、これは阿古の海(アコノウミ)が転化したものと考える人がいることを付け加えておく。暇な時間に荘内の古代のロマンを想像し、考えて見るのもまた楽しいものである。